山村浩二 右目と左目でみる夢 facebook twitter instagram



コクトー

山村アニメーションは予測不可能な動きの展開に身をまかせるしかない。
昨夜見た夢が、こちらの想像を超えて動き始めてしまったかの様な不思議な興奮。
鈴木理策(写真家)

「アニメ」とは違った日本のアニメーションがあることを忘れがちですが、
どこか日本人離れした山村さんの作品は絵がユニークだし、刺激的でウィットにも富んでいます。
ピーター バラカン(ブロードキャスター)

山村さんは「変化」の魔術師だよ!線が地平に、面が空に、縮んで命に、広がって宇宙に。
物語に収斂したかと思えば抽象に拡散して僕らを心地良く翻弄するんだよ!

アニメーション作るときにどこが一番面白いかといったらそりゃやっぱり動き出す瞬間だろう。
たくさん絵を描いたりいろんな設定をしていよいよエイヤッとボタンを押すと、あら不思議!ただの絵に突如アニマ(霊魂)が宿って動き出す。誕生の瞬間。変化の瞬間。山村さんの作品にはそんなアニメーションの醍醐味がてんこもりだ。
一本の線が地平になる。刷いた筆が海になる。線が面に、面が空間に、縮んで命に、広がって宇宙に。たくさんの変化が重なって一つの物語に収斂したかと思えば、次の瞬間にはそれを裏切り抽象となって拡散する。画面に現れる絶え間ない変化はまた、製作をほぼ一人で行なってる山村さんの生きてる時間の投影だ。描かれる時間にただの一つも同じものはない。ある時は「古事記」をある時は「言葉」を追って違う何かが現れる。
そんな変化を追い自らも変化する山村さんの新作は「時代」だ。100年前サティが、ピカソが、戦争の不安の中新しい芸術を追っていた時代の、明るい混沌が幻の舞台の形を借りて紡ぎ出される。
そして今、ボクらはあんな風に自由に変化できているだろうか? 丸の次は四角になり、青の次は赤になり、人の次は人でないものになれるだろうか? 混沌を受け入れ自ら変化することこそが生きていることだと笑って言えるだろうか?山村さんの向こうからサティの皮肉っぽい目が、ニヤリと笑ってこちらを見ている気がする。
しりあがり寿(漫画家)

題材から喚起される、「イメージの“直訳”」……とでも表現したくなるような、飛躍とユーモアとリズムに満ちた映像の奔流に、脳がワクワクしっぱなし!
ライムスター宇多丸(ラッパー/ラジオパーソナリティ)

音楽というよりは純粋な音が
意識の扉をひとつひとつ開いていくその先に
言葉を越えたイメージが浮かんでは果てしなく変容する。
深い意識の底を刺激する、映像体験!
鎌仲ひとみ(映像作家)

ただの線。
すー、っ、とのびたりまるまったりぐちゃぐちゃしたりふるえたり。
ふと、何か見え、怖くなる。吹きだしてしまう。
山村浩二が気づかせてくれるのは、生きとし生けるものにとっての、おもいこみ、錯覚、しかも奥深い〝ファンタジー〟。とってもチャーミングな音楽とともに。アニメーションのスタイルを革新しつつ。
小沼純一(音楽文化論/早稲田大学教授)

山村さんと初めてお会いしてからかれこれ30年近くが過ぎようとしている。
彼は初めて会ったときから、
すでにはっきりと自分の世界観を持ったアーティストだった。
類い稀な造形センス、エスプリの効いたポエジー、予想のできない語り口、
そしてそれらの根底には多くの人が失った純粋無垢な子供の視点から
捉えているような独特な感触があるように感じた。
子供の視点には大人には見えなくなった
本当の豊かさを捉える能力があったことに気づかさせられる。
子供は生まれて間もない分、
我々の本来の姿であるスピリットの状態から遠ざかってはいないのであろう。
子供の視点はスピリットからの視点に近いとしたら、
それは大人の視点よりも実は起源も古く、
神話や伝説の生の姿にも通じていて、
叡智に至る秘密をも見通せるのかもしれない。
もはやその様子は子供というより
ワンダーチャイルドと呼んだ方が正確かもしれない。
ただしアートというものは、
この三次元に具現化されるには、
感性を盛るための容器が必要だ。
この容器に当たるものがあらゆるアートにまつわる技術なのだと思う。
ワンダーチャイルド的な感性も技術が伴わない限り作品にはなり難いであろう。
芸術によってはその技術というものが先人によって運良く体系化されているものもあり、
もっぱらその恩恵で量産体制を取れる芸術分野もある。
しかしアートアニメーション作家は自らの感性を盛るための容器を
毎回一から設計し自ら施工しているかのようだ。
僕はいつもそのことに感服する。
言うまでもなく山村さんはそのようなアートアニメーション作家の一人であったし、
今でもそうであり、今後もそうである。
上野耕路(音楽家)

「パラード」も「怪物学抄」もシンプルで、平面的に見える世界に果てしない広がりがある。
そして、楽しめるものでありながら、とても作り手の正直な今や、暗い奥底が覗く。
山村浩二の新作を観るということは、どこか、本来のあるべき姿に出会い、自分を矯正する行為だ。
世俗に合わせることに精一杯な自分に向けて、山村浩二の光がスクリーンから溢れ出る。滝に打たれるようなその時間がたまらない。
犬童一心(映画監督)

山村浩二さんアニメを観ていると、
どこからか拍手喝采が聞こえてくるような気配がする。
目には見えない、どこかの世界から。
そして、知らぬ間に自分も、その世界と今いる場所を行ったり来たりしながら楽しんでいるような、
そんな気持ちになるのであった。
しまおまほ(エッセイスト)

少女 "サティの「パラード」" へ

あかるく、たのしい! それでいて薄味ながらも何種類ものイロニーもたっぷりまぶし。
《パラード》を、三者の「共同制作」として浮かびあがらせつつ、エリック・サティの思考・ことばとオーヴァーラップさせたみごとな、類をみないアニメーション。
小沼純一(音楽文化論、早稲田大学教授)

Kojiの新作は本当の傑作だ。新鮮で、クレージーで、
小さな、そして大きな驚きがある。
また驚くべきは、kojiの作品の大きな様式の多様性と、
常に細部にも偉大な芸術家山村浩二の手を認識することができることだ。
プリート パルン(アニメーション監督)

ウィレム・ブロイカーの起用と痛烈で明るい解釈は、
山村の繊細な線による創作に強度を与える
多大な細部へのこだわりと当てつけたっぷりの引用によって上品に描かれた作品。
アルマット オッホズマン(評論家)

山村浩二氏の最新作『サティの「パラード」』をうれしく拝見いたしました。
サティのテーマらしく、ユーモアと明るいエスプリに満ちて、見る人の心を引き付けるアトラクションの空間が、繊細で美しい表現と動きに満ちて、とても成功していると思います。
いきいきと表情豊かなキャラクター、音楽ばかりではなく、作者が深く理解し感覚している作家たち‐カンディンスキーやミロに始まりダリに至るまで、素晴らしく自由闊達な独自の再表現がなされていることに驚かされます。
 時々動きに鋭さやアクティヴな点が若干不足しているように思えることがあるのは、きっとリズムが単調であることによるのかもしれません。いずれにしても、作者の美しく注意深い精神とまなざしで創られたテーマは、豊かな表現や動きによって、全体として大きな成功を収めています。心からお祝いを申し上げます!
ユーリー ノルシュテイン(アニメーション監督)

"怪物学抄"へ

これら奇怪千万な生き物が
全部自分に見える人は、
かなり正常である。
柴田元幸(翻訳家)

個性を伸ばしすぎた奴らが、
壊れながら生きてる。
かっこいい。
穂村弘(歌人)

日本には、真のデーモンたちが棲んでいるようだ。
彼らは、我々を慄かせるため、我々の想像力を覚醒させるため、
そして我々の生活に存在的な規模を与えるため、
我々の無意識の深底からリアルに映し出されたのである。
ヤン シュヴァンクマイエル(映画監督、 翻訳:ホリー・ペトル)

「レントゲンケーキってどんな味?」
「丁寧に作っていて、濃い目のバタークリーム味じゃない?」
「浮かんだり融けたり、綺麗だったね」
「もうちょっと食べたいなというところで終わったのもいいね」
「うん!」
ロバート キャンベル(国文学研究資料館長)